若女将のガイドウォーク
湯田川温泉をより良く楽しんでいただけるように、裏道散歩・四季の風景・湯田川の見どころなどお好みのコースで若女将がご案内します。
宿泊のお帰りにお散歩を楽しむガイドウォークです♪
湯田川温泉小唄を巡る
昭和6年に作られた湯田川温泉のご当地ソング
誰でも歌えて情緒豊かな地元の唄が欲しいと、松田啓治/作詞と太田理太夫/作曲により作られました。当時の粋な湯田川温泉の姿を描く歌詞に合わせて現在の湯田川温泉散策スポットをご紹介します。
手負い白鷺 葦間に降りて 出湯に湯浴みし いい伝え
和銅5年(約1300年前)傷を負った白鷺が葦腹に降り湧き出る湯で湯浴みしていた云われています。
湯の守り神「由豆佐売神社」の正面に位置しており湯上りには出湯の感謝と無病息災を願い神社に一礼します。
城下町から一番近い唯一の温泉場であったことから鶴岡の奥座敷と呼ばれました。古くから湯治場として栄える一方、遊郭も存在しました。弦歌さんざめく時代だったと記されています。
各旅館の庭先には「客を待つ」ことから何れも松を植えて松の木ロードの風景だったそうです。時代と共に設備の拡張や駐車場の確保、老木による伐採でその面影は消えました。
馬場山を眺望する梅林公園の東屋から鳥海山も一望できます。梅林公園は竹林に囲まれ梅・牡丹・桃・萩など四季折々に花が咲きます。4月には梅まつりが開催されます。
日暮れから夜にかけて蛍狩りで賑わっていたひと昔。現在では生息が減少するなか環境保全によって自生しています。6月中旬から約一か月間ほたる鑑賞が楽しめます。
明治40年に防火用水の貯水池として造られた時、単純な溜池では能がないと鯉を飼育し秋に鯉釣大会を催して近隣の町村から大勢の釣客が集い賑わいをみせました。現在は錦鯉が多く餌やり場が作られ貯水池でありながら鑑賞池として親しまれています。
※「すわる」とは「しなる」の方言
大正天皇の御大典(即位の礼)の記念に植えられた桜と、大正の文字に植えた白つつじが花模様を浮かべて咲き誇ったそうです。当時の桜も白つつじも残っていませんが遊歩道沿いに植え替えた桜が春の散歩を楽しませてくれます。
狩猟や漁業を守護とする神社として崇拝を受ける山の神様です。樹木園の見晴らし台になっており田園風景が望めます。今でも街灯は無く月と星の明るさに夜空を見上げることでしょう。
夏でも涼し気な場所で八幡神社が祀られています。国道沿いから山裾を歩く岩清水までの小川に平家蛍が生息し街灯の無い暗闇の蛍鑑賞はもっとも幻想的といえます。
昭和初期まで鶴岡街道を覆いかぶさるように枝ぶりのよい二本の松がありました。この松の木周辺を何故か一本松と呼んでいたそうです。しかし1本の松の木が枯れ名実ともに一本松となり平成の宅地開拓により残りの1本も伐採され名ばかり残る一本松です。
金峯山の麓に傑堂能勝が建立した堂春院があり大和の国大峯山を模したと言われています。登山道は有志の協力により毎年手入れがされています。
藤沢周平先生 縁の地
時代小説の第一人者である直木賞作家の藤沢周平。
山形の師範学校卒業後に教師になり湯田川中学校に赴任しました。背広を持たない彼は詰襟の学生服で生家(高坂)から自転車で通っていたといいます。
出湯の守り神であり、延喜式神名帳にも登載された格式高い神社です。境内には樹齢1000年を超える天然記念物の乳イチョウがあり母乳の出が良くなるようにと参拝されていた神木です。同じ境内では藤沢周平著作の映画「たそがれ清兵衛」のロケ地になりました。湯田川住民がエキストラで参加した記念のパネルがございます。
清河八郎が率いた浪士組であったが、目的は尊皇攘夷と明らかにした。浪士組は新微組と名を改め清河が暗殺された後に庄内藩預かりとなります。一方、京に残った浪士組みの一派が新撰組です。新微組が在住中に没した隊士及びその家族200名の慰霊が眠っています。
清河八郎を描いた藤沢周平著作「回天の門」